夜明け前

江戸時代末期から開国、明治維新を経て、西南戦争のころまでの歴史の流れを、馬籠の駅長という立場にあった、青山半蔵の視点から眺め、そして半蔵そのものの生きざまを描いた小説。
半蔵は、江戸時代の体制の一員としての人生を送りながら、国学に目覚め、王政復古の新しい時代を夢見るようになる。明治維新後、何のためらいもなく駅長という役職を辞した半蔵であったが、いざ御一新の世の中となると、現実が自分の理想とは異なることが徐々に明らかになっていく。東京に出した子供とも うまく行かず、最後には、精神を病み、或る日、寺に火をつけるという行為で座敷牢に閉じ込められ、一生を終わる。

年表

1853     クリミア戦争(1853-1856)/パリ条約(1856.3)
1853 嘉永6 6 ペリー(アメリカ東インド艦隊司令長官)浦賀に来航
1854 安政1 日米和親条約 
1856   6 アロー号事件 
    8 ハリス、下田に来日
1858 安政5 6 勅許を得ないまま、日米修好通商条約調印
    10 慶福 第14代将軍家茂に就任
  海外 5 愛琿条約(東シベリア総督 ムラヴィヨフ)中ソ国境=アムール川 ウスリー川以東の沿海州は共同管理
  海外 6 天津条約①外国講師の北京駐在承認②キリスト教布教容認③外国人の内地通商承認④開港場の増加
1859 安政6   安政の大獄
1860 万延1 3 桜田門外の変
    3 五品江戸廻送令(生糸、雑穀、水油、蝋、呉服) 経済の混乱→幕府批判、攘夷
    12 米通訳官ヒュースケン暗殺される
  海外   北京条約=①英に九竜半島南部割譲。露に沿海州割譲。ウラジオストク建設
1861 文久1 10 和宮降嫁(京都出発)、11月江戸着
  海外   ロシア軍艦対馬占領事件、同治帝即位、清が理各国事務衙門設置、農奴解放(露)
1862 文久2 1 坂下門外の変(公武合体論者である老中安藤信正を襲撃)
    4 寺田屋事件(島津久光が薩摩の攘夷派藩士を排除)
    7 文久の改革(島津久光と公武合体)=開国以来の混乱の収拾
 →参勤交代の緩和、洋学研究の推進
 →慶喜を家茂の将軍後見式、松平春嶽を政事総裁職、
  松平容保を京都守護職(京都所司代の上部機関)に任命
    8 生麦事件
1863 文久3 2 京都尊攘派浪士による 足利三代木像梟首事件 松平容保の取締り
    3 将軍家茂の上洛
    4 朝廷の指示により慶喜が5月10日を攘夷の日と決定
    5 長州藩 久坂玄瑞等が攘夷実行
    7 薩英戦争
    8 会薩同盟(秋月悌次郎と高崎佐太郎)急進尊攘派の公卿と長州に対抗
    8 天誅組の変(尊王の志士が大和の五条、十津川で挙兵)
    8 八月十八日の政変(会津・薩摩/公武合体派が長州藩/尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放
  海外   高宗即位 大院君体制、南北戦争
1864 元治1 3 水戸天狗党の乱(武田耕雲斎挙兵)  同年12月に降伏
    6 池田屋事件(新選組が池田屋を襲撃)
    7 禁門の変(蛤御門の変) 長州藩が松平容保の排除を目指して挙兵
    7 第一次長州征伐 
    8   四国艦隊下関砲撃事件で敗北→長州藩は家老を切腹させ謝罪
1865 元治1 1 功山寺挙兵 高杉晋作が長州藩の実権を握る 長州藩は尊王攘夷派になる
    9 兵庫開港要求事件(英、仏、蘭、米の艦隊が兵庫に入港)→阿部、松前が調印→勅許を得ていないとして朝廷が解任
  海外   第一インターナショナル(マルクス/ロンドン)
1866 慶應2 1 薩長同盟
    6 第二次長州征伐
    7 将軍家茂死去(紀州藩・慶福) 幕府と長州和解=幕府の権威失墜
    12 孝明天皇崩御
  海外   シャーマン号事件、丙寅洋擾←丙寅迫害、第一(マルクス/GVA)
1867 慶應3 10 土佐藩、芸州藩、幕府へ大政奉還の勅許を建白 勅許後、慶喜将軍職を辞す
    11 坂本龍馬、中岡慎太郎、京都で暗殺される
    12 朝廷、王政復古を宣言
1868 慶應4 鳥羽・伏見の戦い
    3 江戸城無血開城
  明治1 9 明治改元,会津降伏
1869 明治2 6 版籍奉還
  海外   アメリカ大陸鉄道、スエズ運河開通
1871 明治4 7 廃藩置県
    9 日清修好条規(相互に外交使節を常駐)
  海外   辛未洋擾(米が朝鮮を攻撃。大院君は開国を拒否) ドイツ帝国成立
1872 明治5   島崎藤村生まれる
1873 明治6   朝鮮派遣中止、西郷隆盛ら参議を辞職
1874 明治7   佐賀の乱
1877 明治10   西南戦争
1886 明治19   青森半蔵死去
1929     「夜明け前」第一部発表 

治水 第二部八章
 (莫大な人手と費用を要したにもかかわらず)、尾張藩が多くの努力を惜しまなかっというのは、山林保護の精神から出たことは明らかであるが、一つには木曽川下流の氾濫に備えるためで、同藩が治水事業に苦しんできた歴史は何よりもその辺りの消息を語っているともいえる。

万国公法 第二部二章
なあに、そこは万国公法の世の中だもの、と正香が戯れてみせた。近頃はそれが大流行

 

タイトルとURLをコピーしました